The Search(美学と孤高)

新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。

ところで、昨年末、久しぶりに心に響くやり取りがあった。相手はフライフィッシャーの「ミッジ先輩」。


大体において、この人は突然かつぶっきらぼうなメールで連絡してくる。前置きや段取りはゼロ。ナッシング。この日も朝8時頃にいきなり、

「どこ?」

と来た。この日は釣りに行ってなかったので、


「今日は家です。この前40㎝弱のレインボーを1匹釣りました。写真、後で送ります。」一応先輩なので、なるべく丁寧に答えるようにしている。そして、この人も湖に行くつもりなのかな、と思い、


「〇〇のポイントあたりに弟子の△△くんがいるはずです。」と付け加えた。


それから半日経って返信が来た。見ると、どうやら不機嫌のようだった。


「弟子(なんか)取るヤツは、素人やがな。よく、師匠とか弟子とか使う釣り人がいるなぁ。   シマアジ入れ食い。」と。


弟子というフレーズは軽い冗談で、シマアジは次の機会にもらいにいくことをメールで告げた。少々キツい言い回しだったけど、つくづくこの人らしいなと感じ入り、とてもいい気持ちになった。


ちょっとここでは書けないくらい数多くの武勇伝を持ち、無骨過ぎるくらい無骨だけど、自分自身の釣りに純粋な美学を持ち続け、孤高を貫いている彼だからこそ、響いた。

トラウトが大好きなのに、地元ではほとんど行かず、年に数回ガイドなしの単独で北海道行脚を繰り返している。真意は正確には聞いていないが、どうやら北海道に比べてとてもせまい地元の渓流のトラウトを、みんなでよってたかって釣りなぶるのが可哀想でならない、ということらしい。


しかし、呑んだときに話してくれるその釣り方にはいつも背筋が伸びる思いがする。本人だけの談じゃなくて、周りにいる他の方々も同じことを言っていたからきっと間違いないのだろう。


例えば湖では、魚を見つけると木陰に身を潜めて静かに観察する。ニジマスが小型の虫なんかをついばむモジリは素人目には小魚のそれと見分けがつかないこともある。


観察はかなり長い時間、1時間くらいに及ぶこともあるらしい。クルージングコースを読み取り、産卵行動か、ベイトを探しているのかを考え、捕食しているもの、しそうなものをイメージし、じっと、じいっと観察する。


全てを読み解いたうえで、ピンポイントの1キャストでランカーサイズを仕留める。


例えば激戦区の渓流では、いいサイズの魚はとても変なところに定位していることが多いとも言う。流れのない護岸の際とか、普通は見過ごしそうなところで人のプレッシャーを嫌っていることがあるという。これは私も渓流で試してみて、本当にその通りだった。


こんな先輩の言うことだから、言いたいことはよく分かる。


「釣りが本当に好きならば、もっと真剣に、もっと誠実に魚や自然と向き合え。」


「ちょっと釣ったことがあるからといって分かったようなつもりで天狗になり、人に教えたりするな。」


「自分の感性と技能をとことん突き詰めることもせずに、人に教わろうとなんかするな。」


おそらくそんなところだろう。

そういえばこの「近所のカリスマ」と初めて釣りに行ったのも去年のことだった。


長年イメージしてきた彼の釣りは、実際触れてみると想像を超えて素晴らしいものだった。


硬いショードロッドにナイロンラインにミノー直結という一見、一昔前の道具立てだが、その使いこなし方が独創的。


例えるならばジギングのスライドアクションを並行方向に発生させるイメージ。ナイロンラインの伸びを利用してロッドアクション後に一瞬の間を作る。

こんな釣り方は想像したこともなかったし、雑誌などで見たこともない。


ミッジ先輩と同じくサイトフィッシングが好きで、リスクを承知の上でなるべくポイントに接近し、ヤマメの付き場を想定し、キャストのポイント、リトリーブコース、定位しているレンジまでをもシミュレーションし、ミノーをターンさせるポイントで喰わせる。そしてそれが全てイメージ通りに成立することに喜びを見いだしている。


こんなことを目の前であらかじめ言っておいてから、実際その通り釣ってみせるから参ってしまう。

私見だが、重いルアーをやみくもにトゥイッチングし、何となく釣れてしまうようなルアー釣りが多い中で、彼の柔らかくしなやかにルアーを踊らせるメソッドはおそらく渓流・源流のルアーフィッシングでは最も美しい釣り方の一つだと思う。


そして釣った後もまた、それは素晴らしいヤマメの写真を撮り、優しく元の流れに戻してやる。

そんな彼もミッジ先輩に比べると言葉少なだが(先輩はスイッチが入るととてつもなく口数が多い。)、その言動の端々にとても強い美学を感じる。


人には「自由にやればいい。」と言いながら、一つのルアー、一つの釣り方のみをとことん追求し、他の釣りには目もくれない。自分では「偏屈になってきて・・・。」などと言うが私にはそうは見えない。一つのやり方のみを潔く突き詰める彼のスタイルはまさしく美学そのものだ。


また、人と競いあうような発言すらもひどく嫌い、「釣りは自然と魚相手の遊びだから。」と言い切る姿に孤高のオーラを感じる。

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まぁ元々、私自身、血液中に体育会系のDNAはほとんど存在しない。


小さい頃から集団行動が嫌いで、「トッモダチ100人出来るかな~。」の歌を歌わされている時は、「そんなにいたら面倒くさくてたまらないだろ。」といつも心でつぶやいているような子どもだった。


そして、成長しても学校や会社でそういう役割が求められる時間が終われば、絶対に自分の好きなことしかしない。諸々の付き合いとかは、自分の気が向かない限りまず参加することはない。

反面、憧れられるような男はいつも探していたと思う。小学生の頃はそれは王貞治であり、宇宙戦艦ヤマトの古代進だった。


それから20歳を過ぎて1人のミュージシャンに出会った。正確に言うとその音楽に触れた。彼の名は、ボブ・バーグという。


70年代からジャズミュージシャンを生業(なりわい)としていたサックス奏者だが、始めは音楽だけでは食えずに、タクシー運転手で生計を立ててたこともあったという非エリート系で、無骨なサウンドが魅力だった人。


80年代になって、当時のジャズ界の帝王、マイルス・デイビスに起用されてからは、打って変わってかなりの成功をおさめて人気ミュージシャンになったけど、その演奏スタイルは決して世間に日和ることなく、デビュー当時からの魅力を保ち続けた。


この他に彼への想いを綴れば、それこそいつもの10本分の文章を連ねることは軽く出来るのだけど、とてもシンプルに言えば私の中の音楽は大きく分けて2つのジャンルしかない。



ボブの演奏か、それ以外か、だ。


世間の評価は「楽器をフルに鳴らしきる豪快なトーン」、「超絶テクニック」「朗々とよく歌うプレイ」というようなものが多い。確かにそういう側面もあるけど、私にとって彼の演奏はヒバリの飛翔だ。

<Mike Stern, Bob Berg - After You>


他の鳥みたいに風に乗って、優雅に羽ばたけば楽に飛べるだろうに、そうはせずにセルリアンブルーの天空に向かい鋭角的な軌跡を描いて一心不乱に飛ぶヒバリの姿だ。彼のアドリブ・プレイにはそんな光景を心の中にくれるものが多くあって、心を打つ。


周りなんか顧みもしない。ひたすら自分の美学を追い求めて飛びゆく孤高のヒバリ。


言葉で語るわけじゃない。ただ、サウンドから伝わってくる。

男は強くなきゃ生きられないが、同時に美しくなければ生きる資格かない。そんなことをずっと教えてもらっている気がしている。


そんな彼は2002年の12月6日、これからさらに、という時に自動車事故で亡くなった。おそらく趣味のバス釣りに行くか、帰るかの途中のことだったと思う。


あの日から私の中の音楽の半分は完結し、完成されている。しかし時間は止まらない。繰り返し繰り返し私の中を巡っている。

今でも釣り場に行くときにはよく彼の演奏を聴く。

そして、彼のブロウに似た釣りをする男たちが大好きだ。

私にとっては音楽も釣りも根本的にアーティスティックな活動だ。ただ大きな違いは釣りの場合はその主な相手が自然だ、ということ。

しかし、どちらも魂の奥底が求めるものへの探求に他ならない。


今年もまた彼を聴きながら、美しい出会いを求めてゆこうと思う。


<Bob Berg:"The Search">

Angler's lullaby

アングラーズララバイ ~ 釣り師の子守歌 〜