朱点の"ある"アマゴ

年明けしばらくしてから、1本の学術論文がメールで送られてきた。


送り主はここ数年、よく一緒に釣りに行かせてもらっている大学の先生。「宮崎の自然と環境」という科学誌の中の1記事で、タイトルは「ヤマメ域とされる南九州の河川における朱点のあるアマゴの生息」とある。


著者一覧には先生の名前の他に、あのフライフィッシングの大家、佐藤成史さんの名前や先生の大学の先輩で、佐藤さんとも交流のあるミッジ先輩の名前もある。そしてとても恐縮なのだけど、私の名前も連ねていただいている。


思い返すと昨年、佐藤成史さんと宴席を共にさせていただいたのも、この研究活動の中でのことだった。


また、文中にはネットで知り合って先生に紹介したアングラーたちの名前もある。


私自身は少しの期間、手伝いをしただけで、結局釣りをしていただけの1アングラーに過ぎないけれど、先生はこの論文に至るまでにそれこそ膨大な時間と労力を費やしてこられたに違いない。専門用語の並ぶ行間に研究者としての情熱と執念が感じられる。


ところでアマゴと言えば通常、朱点があって当たり前の魚なのに、あえてこのタイトル。

実は、ここにこの論文の肝がある。

いきなり結論を書かせていただくと、ヤマメ(サクラマス)は朱点がなく、アマゴ(サツキマス)は朱点がある、という分類の仕方は間違っている、というのがこの論文のキーだ。


つまり、


現在、「ヤマメ」と呼ばれている魚の中に朱点が「ある」ものもあるし、


また、「アマゴ」と呼ばれている魚のなかにも朱点が「ない」ものあるということ。


じゃあ、一体どうなっているのか。


ここからは先生がまだ公表なさっていない内容で、詳しく書く訳にはゆかないのだが、DNA解析と漁協やアングラーへの聞き込みや現地調査等の徹底したフィールドワークの結果、この魚たちは6種類の遺伝子グループに分類されるという。


大体、現在のヤマメとアマゴ、そしてその生息域というものは昭和5年に書かれた論文が大元で、これを覆すような学説は現在までない。


ただ、昭和のその頃はDNA解析などというもの自体が存在せず、見た目や骨の本数等で種の分類がなされていた時代。


私が小さい頃読んでいた恐竜図鑑でさえ、現在では研究が進んでその歩く様子や体の模様なんかが違うことが分かり、全く様変わりしている。魚の分類学についても昭和の時代のテクノロジーと平成のそれがどれほど雲泥の差か、きっと言わずもがなだろう。


そして、九州は日本列島の中で最初に海上に現れた島の一つ。これは地質学の中では定説になっている。関東、東北、北海道などはこれよりずっとずっと後。


ゆえに、九州には今ヤマメ、アマゴと言われている魚たちの中で、太古から息づいてきた種から、比較的現在に近い時代に現れた種まで、合計6つの種のグループ全てが存在するという。これは先生のDNA解析の結果明らかになったこと。(逆に北海道や東北には特定された種のグループしかいないという。)


もし、先生のこういった一連の学説が正式に魚類学会で認められたならば、ヤマメ(サクラマス)の学名、Oncorhynchus masou masou(オンコリンカス マソウ マソウ)やアマゴ(サツキマス)の学名、Oncorhynchus masou ishikawae(オンコリンカス マソウ イシカワエ)という名前はなくなるのだろうか。


もしかすると「ヤマメ」や「アマゴ」という呼び名も正式なものではなくなるのかもしれない。


そうしたら例えば、ヤマメをアマゴを合体させた名前になって、その上に6種を表す言葉を付けて、「〇〇ヤマゴ」とか、「△△アマメ」などというものになるのだろうか。


これは我々トラウトアングラーにとっては決して小さなことではないだろう。


先生によると、通例論文を発表した後、1年くらいかけて学会でシビアな議論が交わされるという。(まだ今回の論文にはこの6種の分類方法については詳しくは述べられていない。)


今後も先生のご研究の手伝いながら、この推移を見守りたいと思う。


いつも先生と話す中で、1つ私の心に残るフレーズがある。話しの端々(はしばし)に出てくるこの言葉を発する時、先生からは凛とした覚悟のようなオーラが漂う。それは、


「私は、プロですから。」


というものだ。


国立大学の教授ともなれば、それだけでもちろんそれぞれの分野でのオーソリティ(権威)だ。

彼らが学会で決めたことは、大なり小なり我々の常識を変え、少しずつ少しずつ生活にも浸透してくる。


反面、大学教授と名前だけで何だか気難しそうで、とっつきにくいイメージがあるけど、先生は違う。


普段は気さくで、冗談好きの話し好き。底抜けに陽気でどこまでもパワフルだ。


しかし、自分の調査・研究となるとそれは一変し、どこまでも己に対してシビアになる。


例えばこんなことがあった。

とある調査に行く直前、足の親指の爪を痛めて腫れてしまい、医者からは爪を一旦はがすことを勧められたが、先生は調査を理由にそれを断り、薬物治療にしてもらった。

しかし、調査当日も痛みが治まらず苦しんでいる先生を見かねて私が、


「先生、私と○○くん(学生)だけで行って来ますよ。車の中で休んでいてください。」と言っても


「いや!行きますよ。後からゆっくり着いていきますからどんどん先に進んでください。」

とおっしゃる。


結局、先生は片足をひきずりながらも丸一日私たちに付いてきた。夕方、車にたどり着いた時には足はパンパンに腫れていて、なかなかウェーディングシューズが脱げなかったほどだった。

とにかく現場を見なければ何も始まらないという固い信念があるのだ。


こんなエピソードはこの時1回だけではない。その度に私はいつもビックリし、感心させられる。


今まで、ご専門の1つであるタイの分野ではかなりの新種を発見されてきたという。それもうなずけるような人間力の持ち主。

また現在、国内の魚類学者の間では「国内外来魚」というテーマの議論が始まったと聞く。


つまり、仮に同じ「ヤマメ」や「アマゴ」でも元々その土地にいた魚とそれ以外とを区別しようということだ。そのためには、もちろん明確な基準が必要になる。


それは見た目だけでは簡単に区別できないかもしれない。もしかしたら、ヤマメはヤマメという呼び名のままで、アマゴはアマゴのまま変わらないかもしれない。


ただ、遠い将来にわたってこの魚たちが変わらず愛され続けるためには、その土地その土地で命を繋いできた在来魚を理解することは決して不必要なことではないはず。


”朱点の「ある」アマゴ”というタイトルには魚類学者の大いなる探求心が込められている。

Angler's lullaby

アングラーズララバイ ~ 釣り師の子守歌 〜