Sicilyを聴きながら

年に1曲か2曲、狂ったように聴いてしまう曲に出会うことがある。出会えば数百回は軽く没頭するような。


それは私にとってとても幸せなことで、その間はそれこそ一音一音の流れを暗記する位まで聴きたおす。


この曲は多分昨年末聴き始めて、まだしつこく聴き続けている。


それ位私にとっては素晴らしい演奏。



1992年、ドイツのミュンヘンで収録されたChick Corea & Friendsのライブ動画。


メンバーは、ピアノにチック・コリア、サックスにボブ・バーグ、ベースにエディ・ゴメス、ドラムにはスティーブ・ガッドという文字通りのスーパーカルテット。



私にとってボブは間違いなく一生の存在。


最初の出会いはまだ21か22の頃。当時、ミュージシャンになるため猛勉強中だった弟から、CDウォークマンで聴かされた瞬間のことを今でも鮮明に覚えている。


新宿発、高幡不動行きの京王線の車内、満員電車に近い車内で弟が小声で言った。


「兄ちゃん、これ好きだと思うよ。」アルバムはボブの”In the Shadows”だった。


イヤホンをあててそれほどの時間はいらず、しびれた。羽根が突然生えて、宙を舞ってしまうように感じられた。


しゃがれた声でオトコの本懐を吠えるような、


胸がしめつけられる高音でうめくような、


それでももがき続けて、いつしかヒバリが飛んだあとの軌跡のようにギクシャクとした生き様を感じさせるようなサウンドに、言葉を失った。


彼はもういないが、私にとって彼以上の存在はまず現れることはない。



しかし、世の中にはまれに天才というものが存在するのだろう。


100%天才などには成り得ない私ごときが言うと、天才の天才たるキーワードは、


「未知(未来)」

「奇想天外」

「自由奔放」


そして、


「包容力」だと思う。


ジャズは会話だ。リズムとハーモニーをいかに美しく分解し、己の言葉として再構築し、相手に投げかけることを問われる会話だ。


ボブは職人肌で、極めて洗練された「型」と「技」を持っている。


良い意味で「こう来たら、こうする。」というフレージング(歌いまわし)があり、リスナーはその瞬間を聴く度に、彼がくれる期待通りの展開に歓喜する。


しかしチックにはそれが、ない。「型」がないように感じられる。


ボブがメロディーを吹き終わり、アドリブに入るとほんの数十秒、チックとボブのコール&レスポンスが繰り広げられる。


チックのフレーズに素直に反応するボブ、美しいフレーズをあっさりと投げかけるチック。


その後、ボブがほんの少しだけ顔をチックに傾け、「もういいだろう。」という表情を一瞬だけ見せる。チックはそれを受け止め、2人はバラバラになり、ボブのアドリブ・プレイはクライマックスへ向けて少しずつ熱を帯びてくる。チックは絶妙な合いの手でゴツゴツとした男の咆哮を天才の抱擁で受け止める。


あまりに美しい天才と巨匠の会話。


濃密で端麗な、言い尽くせぬ3分間。


全ては調和なのだ。命と命のぶつかり合いこそが美しさを生むのだ。


令和目前、10連休の初日、教授と2人、秘められた渓流へと出かけた。

やはりそこにも調和があった。命と命のせめぎあいがあった。


生命感あふれるグリーンと透明感で包むブルー。

新緑しか見えないひと時。


この人が天才なのかどうか、まだ私には分からない。

そもそも天才を量る度量などおそらく私にはない。ただ、そんなにおいがほのかにする彼といる時間は、やはりとても楽しい。


私なりに選んだこの源流。

どうやら喜んでもらうことが出来たようだ。私が釣りあげるヤマメたちに彼は歓喜の声を挙げた。


それはまるで神が造った結晶。計り知れない天才が産み出した芸術。



新緑が溶け込む清流にうたかたの夢をみせてもらえる幸福。


何万年もの年月をかけて紡(つむ)ぎあげられた模様。


ヒトは絶対に、絶対に自然には敵わない。ただ、その調和の上で生かされているに過ぎない。


そして、釣り人はその結晶のクチバシに穴を開け、ほんの束の間、その美しさに感じ入るのみなのだ。



このコラムを書きながら、何回も何回もシシリーを聴いている。



それはまるで、来るべき五月の薫風(くんぷう)を運んでくるような香りがする。




(↓12分30秒くらいから25分頃までがSicilyです。聴いていただければ幸甚です。↓)


Angler's lullaby

アングラーズララバイ ~ 釣り師の子守歌 〜