ツイード

高校生の頃、友人にこんな質問をされたことがあった。

「想像してみてよ。」

「今、あなたは電車の中に座っています。そして対面座席にはあなたと向かい合って座っている人がいます。その人はどんな人物?」

まぁ、若造によくある他愛もない会話だった。

目をつぶってじいっとイメージしたのを覚えている。

「・・・。ツイードのジャケットを着た50歳くらいの、紳士っぽい男性。」

当時、「ツイード」という言葉を知っていたかどうか定かではないけど、頭の中に浮かんだイメージははっきりとそれだった。


気がつくと、もう少しであの頃想像した紳士の年代になろうとしている。


音楽とか、文学とか、そして魚釣りとか、浮き世離れした、現実逃避めいたものを浅くさらってきて、職業意識もビジネスセンスも薄い、甲斐性のない半生だったけど、ここまでエッチラオッチラと年齢を重ねてきた。


他にも最近、なんとなく色んな変化があって、密かに決心し、後輩にボソリと宣言したことがあった。


「俺、そろそろ、年寄りになるための準備を始めるわ。」



季節は11月。まだまだ暑い時もあるが、朝夕は冷え込む日が増えてきた。



いつも行く湖の道中、朝ぼらけの美しい陽射しの中、川の水が雲に変わる瞬間を見つける。写真を撮りながら、心の中で思う。


「・・・今日もどうせ、多分、釣れないだろうなあ。」


もう何年も通っているこの場所、大体のリズムは分かっている。


加えて、季節的な要因以外にも、あまり釣果が望めない原因がある。今年の状況は全く良くないと思う。


だけど、そんなことはあんまり問題じゃなくって、たとえ釣れなくても通ってしまう。


単純に魚を釣りたければ他に山ほどフィールドはあるのだけど、寒くなってくるとやっぱりここがいい。


もはや年中行事を通り越してライフワークみたいになってきたんだ。



案の定、3時間ほどキャストしても、反応は皆無。


だけど、もう僕は前の僕じゃない。ちゃんと年寄りになる準備をするのだ。


釣れないと分かったら、以前のようにだらだらと粘ることはしないのだ。



という訳で早々に釣りを切り上げ、温泉に行きました。(さすがに温泉内の写真はない。)


この温泉、天然の高濃度炭酸泉なるものが湧き出していて、初体験だったんだけど、最高でした。


22度くらいの冷泉なので、サウナで身体を温めて、冷水で汗を流して、炭酸泉につかると、あっという間に体中に泡がまとわりついてきて、何とも不思議な感覚。


あとでネットを調べると、炭酸泉って医学的にもその効能が立証されているらしく、入浴することで血流が数倍良くなるそうです。道理で気持ちよかったはずだ。


入浴料、たった550円で得られる至福。



小一時間ほど温泉でゆっくりした後は、温泉施設内で定食を頼んだ。


なるべく人に会いたくなかったから、早い時間に入ったのが功を奏して、食堂には僕一人。


しかし、この日は団体客が多いらしく、少し離れた座敷ではワイワイガヤガヤ音がしている。


「だいぶ時間がかかりますけど、いいですかぁ?」


仲居さんが申し訳なさそうに問うてくる。


いいです。いいです。むしろその方がいいんです。気兼ねなくのんびりさせてもらえるから。



陽当たりのいいロビー兼食堂といったたたずまいの部屋で一人、読みかけの太宰治に目を通す。


「晩年」と名付けられた27歳のデビュー作は本気で遺書としてしたためられたというオムニバス。


生き急いだ天才の紡ぐ文章は、遺書というにはあまりに瑞々しくて、ピュアな美しさが随所に現れる。



時折読むのをやめて、ロビーを見渡し、カメラで遊んでみたりもする。


何かに飢えなければ、時間は豊かに、ゆっくりと進んでくれるんだ。

まわりを良く見ること。素直に見つめること。

これも最近学んだこと。


人は自分が見たいものしか見えない。


じゃあ、見たいという想いをなくしてみたらどうだろう?


お座敷はだいぶ忙しいらしい。


僕の前にやっとお茶が運ばれてきたのはテーブルに座ってから30分以上経った後だった。

小説を読みながら、軽くすする。甘い草の香りが顔の周りに充満する。


50歳を目の前にした僕の変化。


それは、死にたくなくなってきたということ。困ったことに。


清らかで冷たい水のような心でもがき苦しみ、最後は自ら散った彼とは違い、僕みたいな凡人はマッディーかつ、なまぬるい水の中で、もう少し生きていくのだろう。

ただ、以前より少しリアルに感じられてきた終わりの気配。

何となく、「しにたくない。」と心の中でつぶやいてみる。

何故だか少し明るい気持ちになって、元気が出てくる。

(どこか体調が悪い訳じゃないんです。健康診断にも毎年行ってます。)



最近までは、心の中にいつも「甘美な死」なんていうフレーズがあって、それは文字通り僕をうっとりとさせる甘く美しい香りを放つものだった。


でも変わってきたんだ。やっぱりしにたくない。

未来の夢、なんてものも大事にしてみたいんだ。


1時間以上待って、注文していた鯉の定食が出てきた。


ちゃんと処理された鯉の刺身はコリコリとして、でも脂がのっていて、とても美味い。

味噌汁にも鯉のアラが入っていて、精がつくとはまさしくこのこと。

970円の口福。

お腹いっぱいになって、思いっきり伸びとあくびをして、温泉宿を後にした。


高校生の頃の話しに戻る。

この話しは占いで、対面に座っているのは、自分にとって理想の人物像、というオチだった。

それが本当かどうかというよりも、僕自身がこのことを今でもずっと覚えているという事実が大事。

そして、最近とうとうツイードのジャケットを買った。バイブリーコートというブランド。

もう、最近はここのサイトとブログとインスタばっかり見ています。めちゃくちゃ格好いい。


宮崎の田舎で、この格好で釣りに行くのは少し勇気がいるけど、湖でならいいだろう。


少しずつ、時間をかけながら、楽しみながらウェアとギアを揃えていこう。


生き生きと生きていくためには、格好つけないとね。


まだまだしにたくないんだ。

あの時見た紳士にもなってみたいし。

Angler's lullaby

アングラーズララバイ ~ 釣り師の子守歌 〜