Over the Door (扉の彼方へ)
ちょっと前、とある政治家の方と宴席を共にした時のこと。始まって小一時間ほど経って座がほどけ、そちらこちらで酒を酌み交わすグループが出来、会場はワイワイガヤガヤと盛り上がっていた。
私はその時没頭していた本、「ホモ・デウス」の話しをその方にしていた。
「AIが発達すれば、人はそれを頼りにするようになるでしょう。身の回りのささいなこと、例えば、その日の天気、食事の栄養バランスとか、健康状態とか。」
「そして、きっと次第にAIを欠かせないパートナーとして捉えていくようになります。例えば結婚相手を選ぶ時なんかも自分をずっと見守ってきたAIに相談するようになるでしょう。実際中国ではもうコレ、やってますよね。人生の大事な選択を、コンピュータに任せるようになるんですよ。こうなると、AIが人間の主(あるじ)になる時代もすぐですよ。」
今にして思えば大分酔っぱらっていたかもしれない。大声で、執拗に話していた記憶がおぼろげにある。
そして勢い、私の演説はバイオテクノロジーによる人間の不老不死の話しへと移った。
「すぐに不老不死になるわけじゃないようです。若々しく、健康な状態を今より10年伸ばすテクノロジーがまず出来て、その10年の間に次のテクノロジーが出来て、またその状態が10年伸びる。こんな繰り返しみたいですよ。」
などと、聞きかじったに過ぎない知識をベラベラと話し続けた。
黙って私の目を見ながら聞いていたその方は、不老不死の話しの途中から、急に集中力を失っていった。目の色、顔の表情、声のトーンからそれが分かった。
酔っ払いではあったが、察した。少しアルコールが冷めた。そして、話しを途中でやめ、こう言った。
「頼むから、死なせてくれ、ですよね。」
その方はオウム返しにこう言った。
「そう。頼むから、死なせてくれ、だよ。」
瞬間、言葉の響きとは裏腹に暖かくて優しい空気が我々を包んだような気がした。
今季は本当にヤマメ釣りに恵まれている。こんな年はなかなかない。
週末ごとの天気も良いし、足を運ぶフィールドのほとんど全てで何故だか思い出に残る魚に出会えている。
この日もそうだった。
始めこそ、震度5弱という宮崎県では近年にない揺れを感じた翌日で、こわごわフィールドに立てば立ったで、どんよりとした曇り空に渇水という悪条件の釣りだった。
全く反応が得られない序盤、一区切りとなる堰堤でやっとチェイスしてきた良型をネチネチと攻め続けた。
場所を変え、レンジを変え、10回以上キャストし続けた。チェイスは続くものの、その勢いはゆっくりとなり、スピードは遅くなってくる。どんどんスレが進行してゆくのが分かった。
「もうダメか。。。」
そう思い始めた時、ふと遠い昔の記憶が沸き上がり、ヒントがひらめいた。
もう20年も前、メッキのミノーイングに没頭していた時のことだ。
当時私は、25㎝くらいまでの小型メッキと、40~50㎝オーバーの良型とでは反応するアクションが違うことを発見していた。
このことを思い出し、アクションを当時やってた大物用に変えた途端、「ガツン!」というバイト。一瞬ステラのドラグが鳴いた。
背後で、
「まだやるんですかぁ?次行きましょうよ。」
とあからさまなオーラを放ちながら煙草を吸っていた友人が私の代わりに吠えた。
「うぉぉ!!やったぁ!!」
ヒットルアーはレイチューンのDP50RS。ボディ内部はバルサで外側を樹脂でコーティングしているという珍しい構造のミノー。
塗装が剥げやすいという点以外はとても素晴らしい性能のルアーだと思う。
私見かもしれないが、いわゆる一昔前のヘビーシンキングミノーは、確かにすごく釣れるが、ルアーがアングラーに求めるアクションが単調だった。ひたすら派手に水をかき回し、光をふりまき、魚を興奮させる。
反面このミノー、まず2.7gという重すぎないウエイトで、スリムシルエットなのがいい。
右、左、ややもすると上へも思い通りに泳いでくれ、トゥイッチ、ジャーク、一瞬ストップさせた後に起こる数センチのスライド。優しくも。激しくも。遅くも。速くも。変幻自在。縦横無尽。
使っていて本当に楽しいし、その動きどれもが美しい。オートマチックに「釣れる」ルアーではなく、アングラーが「釣る」ためのルアーだと思わせてくれる。
そんなルアーと読みで突破したタフコンディションの中での釣果。サイズはともかく、最高の1匹だった。
この1匹を皮切りに、それまでどんよりと曇っていた空は真っ青に晴れ、目の前の新緑は清らかな水に淡いグリーンを落とし、谷の全てが鮮やかな色彩を取り戻してくる。
この日の森の扉が開く瞬間だった。
この川のヤマメたちは本当に美しい。しかもただ美しいだけでなく、実に多彩なデザイン、色彩の個体群がいる。
極端に言うと、前後のポイントで釣れる1匹ごとに体色や模様が違う。そんな川。
単に見た目だけではない。風の音、香り。鳥のさえずり、鹿の甲高い警戒音。
それらに浸されていると、何故か全く関係ない小さい頃の記憶なんかが蘇ってくる。
いとおしい何かが包んでくれる。そんな瞬間を私は景色と呼ぶ。
心の扉を明け、フィールドに立てば、景色に会える。1枚の写真を焼き付けることが出来る。
そして、森の結晶であるトラウトたちも私にとっては景色そのもの。
また、命というものはきっと時間が限られているからこそ美しい。
ヤマメの平均寿命は大体3年と聞いた。
この成熟具合から見て、もしかするとこの彼は最後の年なのかもしれない。
青白く燃えるような体側の色はそのまま彼の命の色にも見える。
体側にまるで藤の花の薄紫を落としたような魚体。
ヌラリとした光沢を放つブロンズ色の背中には申し訳程度の黒点が見る者の目を奪った。
怒る彼をなだめて、何回も何回もシャッターを切る。
ありがとう。大丈夫だよ。ちゃんと戻すから。
不思議だけど、そう話しかけると大抵の魚はおとなしくなってくれる。
その直後には小さいけれど、さっきのとは真逆の明るい美しさを持つ個体。
そしてハイライトは、ほぼ前後するポイントで釣れてくれたこの2匹。
側線上に、1匹は赤紫の、もう1匹はオレンジ色をまとっている。
もうすぐ16時、帰りの行程が気になる中、友人と2人、その果てしない美しさに釘付けになった。
木も草も、虫も魚も、その命が限られているからこそ輝きを放つことが出来る。みんな、生きている間は、必死に生きるから。
同じように人間の生も、時間が限られているからこそ、それを求めるからこそ、心に映る景色を美しいと感じ入ることが出来るのではないか。
仏教の教えには「生」「老」「病」「死」が人間の苦しみの根源としてある。やっぱり人生はそれほど楽なものではない。
だからといって、妙に達観したような気になって、日々をやり過ごすだけで何も行動しないのは、違うと思う。心の扉を開いて、行動した方がいいと思う。
限られた時間、生きてる間は、ちゃんと生きた方がいいと思う。
そしたら、もしかしたらあのヤマメたちみたいに美しくなれるかもしれないじゃないか。
扉を開ける期待も、不安も。開けた後の歓喜も、落胆も。それを感じる魂がそこにあってこそだ。
もし、何十年後かにいるかもしれない不老不死予備軍の人間にこんなことを言ったら、どう思われるだろうか。永遠の時間を生きようとする彼らにはどんな感性が宿っているのだろうか。
※↓このPVのトム・ヨークのたたずまいがたまらなく好きです。
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