残響

「美と真実だけを追求し、他は忘れろ。」



気高く、厳しく、また、強烈な引力を放つこのフレーズ。


不世出の天才ジャズピアニスト、ビル・エヴァンスが生前、音楽仲間に語った言葉。


最近、彼の人生を描いたドキュメンタリー映画、『ビル・エヴァンス/タイム・リメンバード』が私の街でも上映されていた。どうやらかなりヒットしていたらしい。


友人からそのことを教えてもらい、行こうかどうか悩んだ。彼は私が大好きなピアニストで、よく車の中や自宅で聴く。繊細なタッチと複雑なコードが絡み合い、物憂げな雰囲気を醸し出す演奏が本当に美しい。


また、ピアノに覆い被さるように弾く姿も何かしら訴えてくるものがあり、そのビジュアルもまた格好いい。

ところが仕事にかまけていて、ある日ふと上映予定を見ると既に終了していた。これもご縁だろう。DVDが発売されたら購入して一人で観てみようと思う。


とにかくものすごく有名なミュージシャンだから、彼を形容する言葉も多い。


その破滅的な人生から、

「時間をかけた自殺」

とか。


そのひそやかな音楽性から、

「無音より静かな音楽」

とか、様々。


他に色んな方々のブログを見てみると、こんなのもあった。


「奏でられたそばから空中で減衰しながら消えていくピアノの残響をも音楽にしている。」


彼の演奏を語るのに限りなく的確で、とても詩的な表現だと思った。



それは、とても立派で美しいヤマメだった。まぎれもなく今季1番の出会いだった。


ヒットさせ、ラインの先で暴れるその大きな頭は深山のヤマメとは思えず、私はもしかして小さな鯉かと思い、友人はそこにいるはずもないブラックバスのようだと思った。



ランディングし、全身を震わせるように雄叫びを上げてから、しばらく放心状態になった。それほどの魚だった。


そしていつものように石で撮影のための区画を作り、友人と2人、写真を撮り続けた。



帰って、200枚近くはあった写真を、小説のページをめくるように1枚、1枚眺める。


何度も眺めている内に、この老成化したヤマメは左右の唇の形が全く違うことに気がついた。


長年魚釣りをしていて、こんなことを発見したのは初めてだった。


果たして一体何年、この沢で生き抜いてきたのか。この立派で美しい体躯を作るためにどれほどの命を必要としたのか。


人里離れたところにひっそりと流れる小沢が育んだ芸術作品に、思うところは尽きない。


このブログは私個人の個室だと思っているので、読んでくれる方々がどう思うだろう、とかはあまり考えていない。あくまで自分が楽しい、美しいと感じられるものを綴っていられればそれでいいと思っている。


また、釣りに行っている時間も、あんなこと書こうとか、こんな写真を撮ろうとかはもちろん考えない。


ひたすら目の前の釣りと写真に夢中になってて、下手すると昼食も食べずに夕方になってしまうこともある。やっぱりそれだけトラウトフィッシングは奥深く、その分愉しみも深いから。


特に、自然の事物、風景なんかは、美しいと思った瞬間に写真を撮らないとなぜだかすぐに目の前から消え失せてしまう。

ほんの一瞬目の前を横切る光と影のコントラストを記録に残すには、実は魚を撮るよりもさらに繊細な心と注意力が要求されると思っている。


多分、目に留まる光景はその人その人で違っていて、実は目に留まったそれがその人が欲しがっているものを含んでいるのじゃないか。


そんなことまで思う。


(比べるのがとてもおこがましいのは解っているけど、)

ビル・エヴァンスが自分が弾いたピアノの残響までをも音楽にしているというなら、私にとって釣りをしながら撮る写真は、自然の中で過ごさせてもらった1日の残響だ。


しかし、一旦フィールドを離れるとその写真たち自体からまた別の残響が生まれてくる。


まるで静かな池に投げた石から出た波紋が、岸にたどり着いてまた別の波紋を産み出すように。


それは好きな小説の一節だったり、昔の思い出だったり、時には人類の未来だったり、そして好きな音楽だったりもする。


頭の中に残っている映像、サウンド、時折ふとした瞬間に蘇ってくるあの日あの時のにおい。そんなのを1人くくるのは、とても楽しく、大事な時間。


そしてそれらを頭の中で熟成させ、写真を並べ、駄文を連ねている。


このいかついクチバシに咥えられたミノーは久しぶりに殿堂入りさせよう。


釣れた日、場所、サイズをマジックで書いて写真と一緒に部屋に飾っておこう。


私には美と真実のみを追求して、他を忘れる生活なんて遠い憧れに過ぎなくって、これからも日々に追われる人生かもしれないけれど、彼との思い出は一瞬、きっと幸せな波紋を起こしてくれる。


この下側が擦り切れた尾ビレは、もしかしたら産卵に参加した跡なのかもしれない。


そしたら、彼は人間に例えたらもしかして私と同じくらいの年齢かなあ。いや、もしかしたら年上かもしれない。


あとどれくらい生きられるんだろう?逃がしてやるから、精一杯生きて欲しいな。


あらためて思う。


漁協が盛んに放流している河川は別だが、そうではないフィールドのトラウトは食べ物ではない。


もし殺してしまえばこの鮮やかな色彩はすぐに黒ずみ、ただの死骸(むくろ)となり、消えてなくなる。そしてすぐにその沢に元々いたヤマメたちはいなくなってしまう。


彼らはやはりある種の鑑賞物、アートなのだ。


釣ることで彼らを傷付け、少しの間苦しめてしまうけど、思いやりを込めて元の流れに戻すことだ。


刹那見せるその輝きをひっそりと鑑賞できるのは、そこまで足を運んだアングラーのみに許された特権なのだから。


そして、その感動は多分ずっと消えてなくならないものだから。


深遠なる輝きには、耽美(たんび)なる音色を。


猛々しい雄の残響には、静かな天才の残響を。


この山女魚との時間を振り返る時は、やっぱり彼のソロピアノがいい。

Angler's lullaby

アングラーズララバイ ~ 釣り師の子守歌 〜