自分専用時間
色んなアカウントが繋がって、買い物履歴がサイト間で共有されて、書き込んでる内容とかもきっと見えないところで多分分析されて、趣味趣向を握られて、いよいよこれからは財布まで繋がる波に組み込まれそうだ。
正確な時間とともに、自分のことがどこかで一括管理されるなんて、ゾっとする。デジタルの家畜みたいな気すらしてくる。
人と会うのでさえとても疲れるのに、もうこれ以上繋がりたくなんかない。
Don't care me.
Leave me alone,bye bye.
という訳で腕時計を買いました。
自分専用時間。
ノーデジタル。
なんと言っても手巻き式。
自分の時間をリューズを回すことで作れる喜び。
たまに時間が1~2分ズレていたりすると、嬉しくなってしまう。
どうやら私たち日本人は時間に正確で、勤勉な人たちらしいけど、それはソトヅラだけでいいじゃないか。
合理化とか、カイゼンとか、そんなのもまぁ大事かもしれないけど、せめて自分の手首には自分専用時間があったっていい。
電気を使わずに、マイペースでチクタクチクタクやってるのは、とてもほほえましい。
だって、周りを見渡せばインターネットに繋がった寸分たがわぬ正確な時計は山ほどあふれてるんだし。
見えない束縛に対するささやかな抵抗でしょうか。
ただ、この買った時計、そのまんまだと皮のベルトが付いていて、暑い時期には蒸れる。
それらはまるで落ち着いた紳士みたいなたたずまいだったり、ひと癖あるガンコ親父のようだったり、また優雅な淑女のようだったりもした。
店にいるときは店主との会話が盛り上がって、よく観察してなかったけど、帰って写真をまじまじと眺めていると、ふっと吸い込まれそうになった。
過ごしてきた場所、湿度、持ち主の体温、見てきた景色。
淡々と進んできたように見える時間の中で、一つ一つ別々の思い出が詰まっている。
そんな気がしてきた。
今まであんまり時計には頓着がなくて、ヴィンテージウォッチのことなんて釣り道具の1/100も知らないけど、ここに来たおかげでその豊かな香りをかぐことが出来た。
前から信じていることがある。
時間には速度の他に密度のようなものがあるということ。そして密度が違えば、速度だって違うということ。
つまり、時間は一定の速度で進むのではないということだ。
僕は理系じゃないので、アインシュタインの相対性理論とかの詳しい中身はチンプンカンプンで、今のところそれが人生に何か影響を与えてるという実感もない。
だけどそもそも、時間なんて一定なわけがない。
こんなくだらないことを考える僕の思考回路をよそに、この店の時間は特に穏やかに、ゆっくり流れていたようだ。
そうか。
時間だってたまには進むのがめんどくさくなることもあるんだろう。
気がつくと小一時間も話していた。
彼一人で切り盛りしているお店。仕事の邪魔をしちゃいけない。
店を出て、街の雑踏を歩くと、時間はいつもと同じように、どことなくせわしく進んでいるような感じがした。
肝心の替ベルトは岡山デニムで作られたものを買いました。
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